昨晩ディナー上での会話で大変興味深いことを知りました。中国語には時制がないというのです。主要な言語の中では恐らく中国語だけでしょう。言葉は考えるための主要な道具ですから、当然そのような大きな特徴は思想にも影響を与える筈だと私は思います。そこでふと思ったのですが、儒教においては常に歴史の目を強く意識しますが、あれはこの言葉の特徴のせいでしょうか?常に時制がないとなると、昔の人間の行動も常に現在の行動と同じように表現しますから、逆に自分の今の行動も、将来において常に同時代の出来事のように語られると想像したのではないでしょうか?日本の文化も、どこかに日本語(膠着語)の特徴に根ざしたところがあるのでしょうか?
- 松本 大
- マネックスグループ株式会社 取締役会議長 兼 代表執行役会長、マネックス証券 ファウンダー
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ソロモン・ブラザーズ・アジア証券会社を経て、ゴールドマン・サックス証券会社に勤務。1994年、30歳で当時同社最年少ゼネラル・パートナー(共同経営者)に就任。1999年、ソニー株式会社との共同出資で株式会社マネックス(現マネックス証券株式会社)を設立。2004年にはマネックス・ビーンズ・ホールディングス株式会社(現マネックスグループ株式会社)を設立し、以来2023年6月までCEOを務め、現在代表執行役会長。株式会社東京証券取引所の社外取締役を2008年から2013年まで務めたほか、数社の上場企業の社外取締役を歴任。現在、米マスターカードの社外取締役、Human Rights Watchの国際理事会副会長、国際文化会館の評議員も務める。