昨晩ディナー上での会話で大変興味深いことを知りました。中国語には時制がないというのです。主要な言語の中では恐らく中国語だけでしょう。言葉は考えるための主要な道具ですから、当然そのような大きな特徴は思想にも影響を与える筈だと私は思います。そこでふと思ったのですが、儒教においては常に歴史の目を強く意識しますが、あれはこの言葉の特徴のせいでしょうか?常に時制がないとなると、昔の人間の行動も常に現在の行動と同じように表現しますから、逆に自分の今の行動も、将来において常に同時代の出来事のように語られると想像したのではないでしょうか?日本の文化も、どこかに日本語(膠着語)の特徴に根ざしたところがあるのでしょうか?