◆暗澹たる気持ちになる。フリマサイトに現金が出品された問題である。1万円札5枚に5万9500円という値段がついた。クレジットカードのショッピング枠を現金化する手口で、当座のおカネがほしいひとを対象とした典型的な貧困ビジネスだ。サイト側はさっそく規制に動いたが、出品者は、チャージ済みSuicaやiTunesカード、図書券、商品券と手を替え品を替えイタチごっこが続いている。1万円札で巧妙な魚の折り紙を作り「オブジェ」として出品したのには笑ってしまったが、ことは笑いごとではない。

◆1万円札は、ホログラムがついていたり、すかしが入っていたり、それ以外にも様々な工夫を凝らして作られている。スイスフランと並んで世界でもっとも偽造が難しい貨幣といわれるゆえんだ。これだけ精巧な技術の粋を集めて刷られる1万円札だが、原価はたったの20円である。原価20円の「紙」が1万円の価値を持つのは、ひとびとがその「紙」に「1万円の価値がある」と信じて使っているからだ。

◆ふつうのひとには1万円でも、あるひとたちにとっては1万円以上の価値を持つ。クレジットカードでの決済と現金を入手する「時間差」が、額面1万円を越える「価値」になる。おカネが利子を生む理由については、ケインズが『一般理論』のなかで唱えた流動性プレミアム説をはじめ、機会費用説、時差説、リスク代償説等さまざまあるが、今回の「フリマで現金」の件では、そのどれもが当てはまるような気がする。

◆資本主義とは、突き詰めて言えば、「カネがカネを生むシステム」だが、今回の騒動は資本主義のダークな一面をあらためて白日のもとにさらしたと言える。だが、おカネ自体に罪はない。おカネは汚いものだとか、資本主義は格差や貧困を生み、ひとを不幸にするシステムだ、という主張は飛躍し過ぎだ。おカネにせよ、資本主義にせよ、それを使う側の問題である。使う側の事情によって、原価20円の「紙」の価値がいかようにでも変わり得るのだ。

◆昔、アメリカでみたテレビCM。男性客がスーパーマーケットのレジでクレジットカードを出すがリーダーがカードを読み込めない。仕方なく手持ちのわずかな現金で支払える分だけにしようとカートから商品を取り出していくが、全然足りない。そして最後に2つの商品が残ったーーバドワイザーのビールとトイレットペーパーの一巻。もちろんバドのCMだからバドワイザーが選ばれる。会計を済ませると、レジ係が尋ねる。 「ペーパー・オア・プラスティック(紙袋にしますか、それともビニール袋)?」 男性客は大声で、「ペーパー!」 そして差し出された(紙の)レシートをひったくるように受け取って去っていったのだった。