◆こんなことを書くと時代錯誤だとかワーク・ライフ・バランスについての理解がないとか、いろいろ批判されそうだが、なにぶんにも大昔の話だからご容赦願いたい。僕が若い頃はおいそれと休みが取れなかった。風邪を引いたくらいで会社を休むなんてもってのほか。熱があろうと頭痛がしようと「這ってでも出てこい」という時代だった。事前に休暇を申請すると上司からこう言われた。「いいよ、休んで。ごゆっくり。但し、出てきたときに君の席はないけどね。」 お前の替わりなどいくらでもいる。そう言われている気がした。

◆米国の労働市場は着実に改善している。失業率だけを見れば完全雇用の状態に近い。それでも賃金の上昇率は力強さを欠く。そのわけは、大量のスラック(ゆるみ)が存在するから - すなわち、本人の意に反して職探しをあきらめた人や、正規雇用を望みながらパートタイムで働く人がいるからだといわれる。正社員の代替予備軍が大勢控えているのだ。これでは賃金上昇圧力は高まらない。だが、少しずつではあるが、それらの人たちを含めた失業率(U6失業率)も改善傾向を辿っている。企業が、お前の替わりなどいくらでもいる、と言えなくなる日がもうすぐ来るかもしれない。

◆最近の株高は、国債の代替として株を買っている投資家によってもたらされている、という見方がメディアに出ている。特に欧州で顕著となっているマイナス利回りを筆頭に、全世界で国債の利回り水準があまりにも低下したため、国債の代替として資金を株に振り向けている投資家が多いという説である。株式が債券の「代替」になるのだろうか?それは単純に資産配分の変更ではないのか。債券の投資妙味が薄れリスクが高まった結果、別の資産クラスである株式に資金をシフトしただけであって、「代替」投資というのとは、ちょっと意味合いが違う。僕がこの「代替」という言葉に違和感を覚えるのは、どこか「本当のものでない」「借り物の」というニュアンスが込められているような気がするからである。長く続いた債券バブルに慣れ切って、「主役はあくまで債券」という偏見的な考え方が透けて見えるからである。

◆お前の替わりなどいくらでもいる。若き日に上司から言われた言葉に発奮した。僕はそれ以来、誰にも取って替わられない、自分にしかできない仕事をしようと心に決めて生きてきた。僕が、僕であるために。他の誰でもない、僕自身の存在を確かめるために。明日は、26歳という若さで夭逝したシンガー・尾崎豊の命日である。尾崎は、僕が僕であるためには勝ち続けなければならないと唄ったが、僕はどうだろう。尾崎豊が、死に際に残した最後の言葉は、「僕、本当に勝てたのかな」であったという。

マネックス証券 チーフ・ストラテジスト 広木 隆