ゼロ金利解除反対が示した植田氏の姿勢

過去の植田氏のいくつかの言動を見る限り、アベノミクスやその柱を担ってきた黒田総裁主導の大胆な金融緩和に対しては基本的には反対の立場と見られる。その一方で、必ずしも異例の金融緩和から政策の正常化を最優先するという考え方でもなさそうだ。その意味では、黒田緩和の修正も当面は緩やかなものにとどまることから、円金利上昇やその円高への影響も限定的にとどまる可能性が高いのではないか。

植田氏は1998~2005年に日銀審議委員を務めた。その中でよく知られているエピソードとして、2000年8月11日のゼロ金利解除に反対したということがあるが、これは植田氏の考え方を知る上で参考になるかもしれない。

反対者2名のうちの1人だった、その真意とは

日銀は1999年1月に、先進国で初めてゼロ金利政策を決定した。ただ、当時の日銀執行部は、それはあくまで緊急避難的な措置であり、可能な限り速やかにゼロ金利を解除し、政策を正常な状態に戻したいと考えていた。

日銀の執行部が注目したのが、FRB(米連邦準備制度理事会)の動きだった。FRBは、1998年夏に大手ヘッジファンド危機などをきっかけに金融市場の混乱が広がると、9~11月と3ヶ月連続利下げを行い、混乱を収拾した。その上で、1999年6月から利上げに転じた。

「FRBが緊急避難措置の解除に動いたのだから、我々もゼロ金利という緊急避難措置の解除が可能になっている」、当時の審議委員の1人は、私にそう説明した。ただ、日銀のゼロ金利解除はすぐには実現できなかった。そのうち2000年に入ると、世界的に株が暴落に向かったため、なおさら日銀はゼロ金利解除に踏み切れなくなった。

そんな株暴落が一息ついたところで、日銀がゼロ金利解除を目指したのが2000年8月11日の会合だったのである。しかし、その議案に対して財務省など政府からの出席者が反対し、議決延期が請求される異例の事態となった。

この議案は否決されたものの、ゼロ金利解除の議案に対しても反対が2名あり、そのうちの1人が植田審議委員だった。要するに、このゼロ金利解除を巡り、政府と日銀が対立した局面で、植田氏は政府に近い立場をとっていたわけだ。

ところで、もう1人の反対者は中原伸之審議委員だったが、中原氏はその後、安倍元総理のブレーンの1人としても知られるところとなり、その意味ではアベノミクスへの関わりも大きい人物だった。中原氏と植田氏の2人がゼロ金利解除に反対したわけだが、当時の議事要旨にある反対理由の分量の差などを見ても、反対の「程度」には大きな差があったようだ。植田氏は「株式市場の動向などをもう少し見極めるべき」などとしたのに対し、中原氏は全面的な反対だった。

金融政策の正常化を急ぎたい日銀執行部、それに対して拙速な判断を諫める植田氏、致命的な判断ミスで日銀の信用を失いかねないとして全面的に反対する後のアベノミクス関係者の中原氏。この異なる3つの立場で誰が正しかったかは、すでに歴史が1つの答えを出している。

この後から世界的な株暴落が再燃したことから、日銀は半年もしないうちにゼロ金利への回帰を余儀なくされるといった屈辱に見舞われ、さらには先進国史上初めてQE(量的緩和)に踏み切らざるを得なくなった。要するに、歴史的に見るとITバブル崩壊の株暴落が続いていたのだが、それが始まり半年ほど経過した中でも、当時の日銀執行部はそれを認識せず、株暴落局面でゼロ金利解除という利上げを行う致命的判断ミスをおかしてしまった。その意味では中原氏の見立てが正しかったことになるだろう。

岸田総理の抜擢理由

ところで、2001年から日銀が始めたQEに対して、「デフレ対策としては役に立たない。ヘリコプターからお金をばらまくような大胆な金融政策が必要」と強烈に批判し、「ヘリコプター・ベン」の異名で呼ばれたのが後にFRB議長となるベン・バーナンキ氏だった。バーナンキ議長は、2008年にリーマン・ショックに遭遇すると、本格的QEを行うことで経済危機からの脱出に導いた。

実は、2013年3月に日銀総裁に就任した黒田氏は、直後にワシントンDCでバーナンキ議長を訪問し、「follow you」と述べたとされる。バーナンキ氏が批判した「日銀流QE」ではなく、「バーナンキ流QE」こそが、アベノミクスの柱を担った黒田緩和のお手本だったのではないか。

植田氏はそんな黒田緩和は基本的に反対ながら、日銀プロパーほど金融政策の正常化へこだわる可能性は低いだろう。それは、アベノミクスの全面的転換に反対する安倍派にも受け入れられ、加えて金利急騰、円急騰に伴う3月末決算への悪影響回避にもつながるとして、岸田総理も新総裁に抜擢する理由になったのではないか。