WHO(世界保健機関)は2021年9月、2019年時点での認知症患者が世界全体で5,520万人に上ったと発表しました。WHOの試算によると、患者数は今後も増え続け、2030年には7,800万人、2050年には1億3,900万人に達する見通しとのことです。(※1)
認知症は今や、高齢化が急ピッチで進む日本などの先進国に限らず、グローバルな課題となりつつあります。治療法の開発や普及が急がれますが、最も発生頻度が高いアルツハイマー型については未だ有効な治療薬が出ていないのが現状です。
認知症患者の急増がリスク視されるのは、治療の問題だけではありません。認知機能が低下することにより日常の金銭管理ができなくなったり、次世代への資産の移転に支障をきたしたりするケースが頻出しているためです。
そこで今回は、筆者が取材を通して見聞した認知症患者をめぐるトラブルについてお話ししたいと思います。
理不尽な遺産相続で家族が疎遠に
離婚して自宅マンションに一人暮らしをしていた会社員の男性のもとに、ある日、民生委員から電話が入り、「至急、お父さんのことで相談したい」と言われました。
実家は同じ県内にあり、以前はそれなりに行き来がありました。しかし、数年前に母親が亡くなり父親一人になってからは、仕事に没頭して滅多に帰らなくなりました。それでも時折、父親と電話で話をする際は受け答えもしっかりしており、健康状態は特に問題ないのだろうと気楽に構えていたそうです。
電話を受け、数年ぶりに帰省した男性は愕然としました。実家がゴミ屋敷と化していたからです。父親は昼夜を問わず徘徊して何度か警察に保護されたこともあり、民生委員の方から「一人暮らしは難しいから、施設入居を考えてはどうか」と勧められました。
それからは、嵐のような日々だったそうです。毎週末、時には会社を休んで実家に通い、3ヶ月後にはどうにかして父親を信頼できる老人ホームに預けることができました。とはいえ、困ったのが父親の金銭の管理です。家の片付けをしながら通帳などを探しましたが、見つかったのは年金振込口座の通帳とキャッシュカードだけでした。
自営業だった父親には十分な蓄えがあり、元気な頃には株式投資で数千万円のお金を運用していたはずです。しかし、そんな痕跡は全く見当たりませんでした。父親のパソコンに何らかのヒントが残されているのではと考えましたが、本人もパスワードを覚えておらず、画面を開くことができません。
3年後、父親は老人ホームで亡くなりました。それまでに男性が立て替えた医療費や自宅の光熱費、固定資産税などは合計で数百万円に達していました。
相続の手続きは自分では無理だと思い、専門家の力を借りることにしました。その結果、実家は別として、父親の遺産は億単位に上ることが分かりました。そんなにお金があるのなら、支払いも父親の預貯金から済ませた方が多少なりとも相続税を減らせたのに…と思いました。
さらに不運だったのは、男性が立て替えたお金は領収証や明細書が残っているものしか返済されず、結果として半分は“持ち出し”(自己負担)になってしまったことです。しかも、父親を老人ホームに入居させた際は不干渉だった2人の弟たちが、遺産があると分かった途端に均等分割を主張してきました。争いが苦手な男性は遺産を三等分することに同意しましたが、男性と弟たちの間には感情的なしこりが残り、以降はそれまで以上に疎遠になったと寂しそうに話してくれました。
成年後見人は「家族の後見人」ではない
成年後見制度を利用した際の不都合なケースもよく耳にします。
昭和時代からアパート経営をしてきた男性は、一人娘に「自分の目が黒いうちに建て替えて、後はお前に任せる」と話していましたが、70歳を超えて間もなく重度の認知症と診断されました。男性は地元でも資産家で通っており、主治医の勧めで成年後見制度を利用することになりました。
男性の発症を機にアパート経営を引き継ごうと考えた一人娘が改めて物件を確認したところ、かなり老朽化が進んでいることが分かりました。一人娘は賃借人が出ていくタイミングで建て替えたいと後見人の司法書士に相談しましたが、返ってきたのは「ダメです」という冷淡な言葉でした。
後見人の言い分は、「必要最低限の修繕費用はやむを得ない。しかし、父親の財産を保護する立場から、建て替えの資金を出すわけにはいかない」というものです。一人娘にとっては想定外の事態です。だからといって新たなローンを借り入れることもできず、一人娘は古アパートを前に頭を抱えてしまいました。
後見人絡みでは、次のような話を聞いたこともあります。
子どものいない80代の夫婦の夫が認知症と診断され、後見人制度を申請したところ、後見人に指定されたのは全く面識のない弁護士でした。夫の認知症はかなり進行しており、夫名義の預金通帳やキャッシュカードはすべてその弁護士に預けることになりました。結果として妻は夫の年金を自由に使うことができず、暮らしていくのが精一杯という状態に陥りました。習い事や友人とのショッピングを楽しむ余裕もなくなり、家に引き籠もるようになってしまったのです。
頭脳明晰な今のうちに対策を
近年欧米で実施された大規模な疫学研究の結果を見ると、アルツハイマー型認知症の罹患率は75歳から90歳くらいにかけて急カーブを描いて上昇する傾向にあります。(※2)
人生80年時代であれば、資産承継は自分の死後のことだけ気にすれば良かったかもしれません。しかし、人生100年時代の今は、その前にもうワンステップが必要になります。すなわち、「相続が発生する前の、認知機能や身体機能が低下して自分で自分のお金の管理ができない期間」の対策です。
自分が認知症になった時、誰に、どうやってお金の管理を代行してもらうのか。家族に前出のケースのような思いをさせないためにも、頭脳明晰な今のうちからしっかりと道筋をつけておきたいものです。
子の立場からすれば、親が元気な時に、何らかの形で親の意思を書き留めたり、契約しておいてもらうのが一番です。口述の場合は聞かされた人がそれぞれ自分に都合のいいように解釈し、いざという時に諍いが生じるリスクがあります。
日本の相続は「民法(相続法)」と「相続税法」に基づいて行われますが、手続きが面倒な上に、2つの法律で解釈が異なることもあり、複雑を極めます。自分で手配するのは荷が重いと感じる場合は、信託銀行や税理士、弁護士など専門家に相談するのが良いでしょう。
(※1)WHOのウェブサイト「Dementia」
https://www.who.int/news-room/fact-sheets/detail/dementia
(※2)新潟大学脳研究所 附属生命科学リソース研究センター バイオリソース研究部門のウェブサイト「アルツハイマー病について」
https://www.bri.niigata-u.ac.jp/~idenshi/research/ad_1.html