「北京の月はどこよりも大きいのよ」とは、香港を舞台にした1955年上映の米国映画「慕情」の中でのセリフである。返還後の香港で、今ほどこのセリフのように北京の存在が意識されたことはこれまでに無いだろう。本稿では、中国の影響力が高まっている香港の情勢(※1)を政治経済面から分析する。

低迷を続ける香港経済

香港の2020年1~3月期の実質GDP成長率は前年同期比-8.9%(前期同-3.9%)に落ち込み、3四半期連続でのマイナス成長に沈んだ。また、マイナス成長幅はアジア通貨危機時における同-8.3%(1998年7~9月期)(※2) より大きく、1974年の統計開始以降、最悪となった。これは米中貿易摩擦に加え、2019年3月からの香港民主派によるデモの激化や当局との衝突などの影響で経済がマイナス成長に転じ、コロナ禍によってさらに大きく経済が下押しされたためだ。

各項目別(※3) にみると、社会的距離(ソーシャルディスタンシング)政策により消費関連の活動が混乱し、労働市場が悪化した(※4) ために消費者マインドに深刻な打撃が与えられ、個人消費支出の減少は同-10.1%(前期同-2.9%)に達した。また、投資支出についても、不動産建設が鈍化したことにより、同-14.3%(前期同-16.8%)と縮小した。さらに、インバウンド観光や国境を越えた輸送、その他の商業サービスが影響を受けたため、財輸出は同-9.9%(同-2.5%)と減少し、サービス輸出は-37.8%(同-24.2%)も減少した。

今後の香港経済について、アジア開発銀行の改訂見通し(※5) では2020年の成長率が前年比-6.5%(4月時点比3.2%下方修正)、2021年が同+5.1%(同1.6%上方修正)と予測された。5四半期連続のマイナス成長が見込まれるうえ、2021年も緩やかな持ち直しにとどまると見られ、4月時点での見通しよりも実体経済の回復が遅れる公算が大きくなっている。
 

【図表1】 香港の実質GDP成長率推移
出所:香港統計局

 

米中対立の最前線に立つ香港

コロナ禍が続くなか、2020年11月に実施される米大統領選挙での再選を目指すトランプ米大統領が中国に対する強硬姿勢を示し、米中対立が深まっている。その中でも、特に香港はその対立の中心となりそうだ。

中国による香港に対する直接介入の度合いを高める「香港国家安全法(※6) 」(以下、安全法)の制定が6月中に全人代常務委員会で成立する見通しだ。新型コロナウイルスによる感染者数が収束に向かいつつある(※7) 中で、香港の民主活動家の逮捕や国歌条例の成立などが行われ、それらに対する反発として民主派によるデモも実施されている。また、安全法の制定を多くの在香港の米国企業(※8) が危惧している。加えて、施行された場合、そのうちの一部企業は他地域への移転を検討するとしており、香港のビジネスセンターとしての地位の低下が懸念される。

米ドルと香港ドルとのペッグ制の存続も懸念されているが、中国本土と香港間の通貨スワップ協定などにより、ドルとのリンクが直ちに切れるとは考えにくい状況だ。とはいえ、直近発表された国際競争力に関するランキング(IMD公表)で香港は順位を落としており、安全法が制定されれば、さらに低下することも予想される【図表2】。

【図表2】 IMDとWEFによる香港の国際競争力ランキング
(注)直近はIMDが2020年、WEFが2019年。なお、WEFについては公表日を含む年次でランキングを掲載
出所:IMD、世界経済フォーラム

9月の立法会選に向け、香港情勢に注目  

2019年11月に実施された区議会選挙(※10) では民主派が大勝し、8割以上の議席を得た。その勢いを追い風にして、2020年9月の立法会選挙(※11) で民主派が勢力を伸長するという見方も一部ではあった。しかし、中国本土での安全法成立の公算が大きく、民主派の候補者の立候補が認められない事態も今後発生しそうだ(※12)。

民主派にとって不利に傾きつつある状況に対し、米国のポンペオ国務長官はコペンハーゲン民主主義サミットで、立法会選挙次第では米国が香港を中国の一部として扱うことを示唆し、米国が今後、香港に対する優遇措置を撤廃する可能性も高まりそうだ。その場合、さらなる香港の中国化が進むことが予想される。

米中対立の構図のなか、安全法成立から9月の立法会選挙までの香港情勢に世界の注目が集まる状況が続く。

 

(※1)日本時間2020年6月24日午前8時脱稿のため、公表時点で状況が変化している可能性がある点には留意されたい。  

(※2)リーマンショック時の2009年1~3月期の実質GDP成長率は-7.8%であり、香港においてはリーマンショックよりもアジア通貨危機による経済の落ち込みのほうが大きかった点には留意が必要である。

(※3)2019年の構成比は民間消費が約7割、投資支出(厳密には、総固定資本形成であり、設備投資などが含まれる)が約2割となっている。外需(輸出-輸入)の構成比は1.7%に過ぎないが、輸出が対GDP比177.5%、輸入が同175.8%もあるため、香港経済は外需に左右されやすいという特徴がある。

(※4)香港統計局によると、2020年3~5月期の失業率(季節調整値)は5.9%(2020年2~4月期(同)5.2%)と上昇し、就業者数は2020年3~5月期362.0万人(2020年2~4月期365.7万人)と減少した。

(※5)2020年6月18日公表。

(※6)各種報道によると、①同法による犯罪行為の対象範囲が不明確である点、②運用が不明であり、香港から中国本土への身柄引き渡しが行われうる点、③行政府による司法府への介入がより強まりうる点などが懸念されている。

(※7)5月30日以降、新規感染者数は10人未満で推移していたが、6月22日にパキスタンからの帰国者を中心に新規感染者が30人発生した。

(※8)在香港米国商工会議所のアンケート調査(調査期間:現地時間、6月1日12時~2日14時)によると、回答した企業の83.3%が安全法を懸念しているうえ、60%の企業が同法によりビジネスに対する悪影響がもたらされると考えている。そして、移転を検討する企業が約3割にも上り、香港経済の先行きについては85%の企業が悲観視している結果も示された。他方で、発券銀行である香港上海銀行(HSBC)や英系のスタンダードチャータード銀行香港は安全法を支持する声明を発表した。両行にとって英国の植民地時代から経営の基盤がある香港は、重要な拠点である。そのため、当局との関係が悪化すればビジネスに支障が出かねないとして、支持を表明したと見られる。

(※9)2020年のIMD(国際経営開発研究所)の国際競争力ランキングでの香港の順位低下について、(1)香港経済のパフォーマンスの低下、(2)香港の社会的混乱、(3)中国経済との摩擦によるものとされている。 ただし、2020年のランキングに過去数ヶ月のイベントが評価に含まれていない点を留意する必要がある。他方で、2019年のWEF(世界経済フォーラム)の国際競争力ランキングについては、香港は、評価項目の内、(1)マクロ経済の安定性、(2)健康、(3)金融システム、(4)製品市場で1位にランクされたことなどが順位の上昇につながったと見られる。なお、WEFについては公表日が2019年10月9日であり、調査に使用された主なデータが2019年3月~7月のものなどであるため、香港デモの激化による経済の混乱が十分に織り込まれていない点を注意する必要がある。

(※10)香港島で4区、九龍で5区、新界で9区の計18の区議会で構成される。全452議席で任期4年。

(※11)前回選挙は2016年に実施され、親中派が過半数を占めた。完全な直接選挙ではない点に留意。全70議席で任期4年。

(※12)一部報道によると、立法会選挙の立候補予定者に対して、安全法の確認書に署名を求めるようだ。

コラム執筆:佐藤 洋介/丸紅株式会社 丸紅経済研究所 経済調査チーム