今日は「ファミコンの日」だそうです。我が家にもファミコンはありました。でも実は、私はあまりプレイするほうではなく、見る専門でした。クリアできなかったり、負けたり、ハラハラしたりするのが嫌で、弟や友人が遊んでいるのを横で眺めるのが好きでした。そして、皆が楽しそうに遊んでいる様子がうれしく、まるで自分がプレイヤーになったような気持ちで攻略を楽しんでいたことを覚えています。
そんな私でも、ゲームボーイのテトリスで地道に上達を楽しんだり、ファミリートレーナーで家の中を全力疾走したりすることには夢中になりました。振り返ると私は、努力が上達につながるゲームは好きでしたが、緊張感を楽しむゲームはあまり得意ではありませんでした。
ファミコンのことを思い返していたら、先日聞いた文化人類学者の言葉が重なりました。「大人にも遊びが必要です」と。その日、私は答えのない問いについて考えるイベントに参加していました。正解はありません。人の考えを聞き、自分の考えを組み替え、また問い直す。頭がくたくたになるほど考えたのに、不思議なくらい面白く、時間を忘れていました。
文化人類学では、遊びは単なる気晴らしや暇つぶしではなく、好奇心に導かれ、試し、失敗し、考え、誰かと対話しながら、自分の世界を少し広げていく営みと考えられているそうです。その意味では、あの日の体験は、脳に余白をつくるような、大人ならではの遊びだったのかもしれません。
ひるがえって、子どもの頃のファミコンは良い遊びだったのでしょうか?ゲームが良いか悪いかではなく、その遊びを通して何を感じ、誰と関わり、どんな世界に出会ったのか。それこそが大切だったのかもしれません。
ファミコンは、多くの人にとって、家族や友達と夢中になって遊んだ記憶を象徴する存在だったのだと思います。では、今の子どもたちにとって、そのような存在は何でしょう。マインクラフトやロブロックスのような空間かもしれませんし、スポーツや創作活動かもしれません。形は変わっても、夢中になり、試し、考え、人とつながりながら世界を広げる。そんな「遊び」の価値は、きっと今も変わらないのでしょう。
そして私たち大人は、最近、そんな「遊び」の時間を持てているでしょうか。皆さんにとって、今の「遊び」は何でしょうか。
