循環論と構造論

円安が止まらなくなる中で、日銀の金融政策を筆頭に、日本の政策が悪いためだといった批判が増えている印象がある。方向は正反対だが、円高が止まらなくなった局面でも似たような現象は過去繰り返された。

止まらない円高の代表例は、1米ドル=100円を超えた円高といった意味の「超円高」が起こった1995年と2011年だろう。前者において興味深かったのは、当時「超円高下のベスト・カンパニー」とされたある電気メーカー・トップのコメントだ。

当時、この「勝ち組」とされた会社のトップは、あるメディアのインタビューで、このようなコメントを出していた。

「円高でもわが社が利益を伸ばしたのは、生産拠点の海外シフトを積極化したためだが、一方でそれは日本国内の雇用にマイナスといった批判も受けてきた。ただし、生産体制を海外から国内に戻すためには為替相場が重要だ。この円高は構造的なもので、その意味では米ドル/円は果たして120円まで円安に戻るのか。円高が続くなら、海外生産比率拡大は経営判断として当然ではないか」。

ところが、このコメントがあった1995年から3年後、1998年に米ドルは120円をはるかに上回り、150円近くまで一段高となった。こういった中で、上述のように1995年にベスト・カンパニーとなった会社は、別の大手電気メーカーに経営的に吸収されるところとなった。

さて、それから約10年過ぎた2011~2012年に、米ドルは上述の「超円高」をさらに超えて75円まで進んだ。こういった中で、「この円高は日本の経済構造を受けた結果なので止められない」として、60円、さらに50円まで円高が続いてもおかしくないといった声も増えたものの、結果的には米ドル安・円高は75円で止まった。

以上見てきたように、これまでの円高・米ドル安は、それが高じる中で「構造的円高論」が登場するといったパターンがあった。循環的な説明が困難になると、持ち出される構造論だったが、結果的にはそんな構造論を尻目に円高はやがて終了した。

では、今回の円安は別なのだろうか?今回が別ということでなければ、円安は飽くまで循環的に一巡する可能性があるだろう。