これは1983年、今から39年前の話です。もう時効だと思い書くことにします。

私は学生の時に、NBCニュースというアメリカの三大テレビネットワークの報道部門の東京のアジア総支局でアルバイトをしていました。このアルバイトは私の大学の寮生が歴代行っていたもので、私も先輩に紹介され仕事をすることになりました。仕事の内容はというとまず有楽町にある外国人特派員クラブに届くNBCニュース宛の郵便を取りに行くことから始まり、夕方5時にオフィスに到着するとコーヒーメークから、コピー取り、電話の応対、そして米国から派遣されている数名の特派員、プロデューサーなど、日本語ができないスタッフのありとあらゆるサポートです。このオフィスはNBCニュースのアジア総支局であったこともあり、アジア中のオフイスからの連絡の対応も任されていました。

その中でも大事な任務は、スタッフが退社した後の夕方6時半、7時、9時、11時の日本のTVニュースとAP 、 UPI、共同通信のテレタイプの機械に入ってくるアジア地域のニュースのモニターです。今のようにインターネットがなくCNNも始まって歴史が浅かった当時、たいていにおいてアジアで起きたニュース速報はAPのようなニュースサービスが最初に一報を流していました。アメリカ人が興味を持つだろうと思える事件を見つけると、帰宅したアメリカ人の特派員に電話でその内容を伝えるのです。価値のある大事件が起きると、アルバイト生もその晩は徹夜となります。私たちはその事件の情報収集を続け、それを英語に訳し続け、提携先の日本のテレビ局の報道部門にニュースの映像を借りに走ったりするのです。

最終的に東京発のニュースは、特派員やエディターの手で数分程度にまとめられ、夜中に衛星回線でNY本社へ送られます。そのニュースクリップは、米国の朝夕のニュース番組の一部として放送されるのです。当時その動画をニューヨークへ送る衛星回線も高額で、いつでも使える訳ではなく、予約を入れて回線が空いてないと使えない時代でした。私はアメリカ人の一流のジャーナリストの仕事を横で見ていて、この時プロフェッショナルのかっこよさを勉強させてもらいました。最後にオフィスのドアの鍵を閉め、ビルの守衛さんに鍵を渡して帰るというのがアルバイトの1日の終わりの仕事でしたので、彼らが退社しないと私も寮へ帰れなく、大きなニュースがあると、夜中の3時まで帰れないという日も少なくありませんでした。

仕事にも慣れ、スタッフからは一定の信用と信頼を得ることができるようになったある秋の日のことです。オフィスに到着するや否や、時のオペレーションマネージャーのK女史に呼ばれ「ハッチさん、あなたパスポート持っている?」と聞かれたのです。「はい」と答えると、「じゃ、明日マニラに飛んでちょうだい」とフィリピン行きを命じられたのです。

フィリピンへ行ってみたいという気持ちはあったものの、気がかりだったのはその時のフィリピンの治安です。当時フェルディナンド・マルコス大統領(現フェルディナンド・マルコス・ジュニア大統領の父親)が18年以上独裁体制を敷いていたフィリピンで、反政府派で米国へ亡命していたベニグノ・アキノ議員(後のコラゾン・アキノ大統領のご主人)がフィリピンへ帰国した際、マニラ空港に到着するや何者かに射殺されるという事件が起きたのです。この事件をきっかけに各地では反体制派による大々的なデモが起き、首都マニラではデモ隊を鎮圧するために街を戦車が走り、銃声が響き渡るような状況だったのです。当時の日本のテレビ局もこのような状況を大々的に報道し、明らかにフィリピンは観光では行っては行けない国でした。

そんなフィリピンへ行けというK女史に、僕はマニラへなぜ行くのですかと聞くと、「これ持って行って頂戴」と見せられたのが頑丈な大きな箱2つだったのです。

中身はというと、業務用の大型トランシーバー。まだ携帯電話がない当時、街の中で戦車が走る中、マスコミがテレビカメラで視聴者ウケする映像を撮る為には、トランシーバーで連絡を撮ることが必要だったのです。私の頭の中には、素朴な疑問が浮かびました。

そもそも、戦車まで使って国民のデモを制覇しようとしている国で、トランシーバーのような国に対して使われるものの持ち込みが許されるはずはない一方、危なさそうなことをアルバイトの学生にさせるはずはないだろうと性善説な考えも浮かんだのです。そんな素朴な疑問を確認すべく「Kさん、これって国に持ち込むことは問題ないのですよね?」と聞いてみると、「問題ない訳ないでしょ、問題だからあなたが行くのよ」と意味不明の答えが返ってきたのです。「えっ、じゃどうやってフィリピンへ持ち込むのですか??」と「これ使ってちょうだい」と言われて渡されたのが、まさかの100ドル紙幣2枚だったのです。

つまりこういうことです。この200ドルという賄賂をフィリピンの税関で使い、2台の業務用トランシーバーをフィリピンに持ち込むというミッションなのです。「大丈夫よ」という意味不明の自信からくるアルバイト先の上司の言葉のほとんどを疑いながら私は考えました。私が税関で逮捕されるリスクは? 万が一、最悪、一時的にでも私が捕まった場合、雇い主であるアメリカのテレビ局は、私を見捨てたりしないだろうか、いや、なんらかの形で助けてくれるのではないかと考えを巡らせたのです。最終的な私の判断は、面白そうだというものでした。翌朝早朝に学生寮を出た私は、オフィスで業務用トランシーバーの入った大きな箱二つをタクシーに乗せ、成田空港へ向かいました。

初めて搭乗したフィリピン航空ですが、治安のよくないマニラへ向かうフライトはガラガラです。そんな中、NBCの会社の規定によりファーストクラスに乗せられた私の服装は、ジーンズにTシャツ姿のビジネスマンには到底見えないのですが、そんな日本人学生に対し、フィリピン人のCAは「お仕事ですか?」と。実は、と本当のことを言いたくても言う訳にもいかず、「はい、まあ、そんな感じです」と冷や汗をかきながら答えるのが精一杯だった記憶があります。成田を出発して約5時間後、私と業務用トランシーバー2台を乗せたフィリピン航空のフライトは無事マニラ国際空港へ到着しました。

イミグレーションにおけるパスポート検査は問題なく通過。そもそも日本でも、この国でも前科はありませんから当たり前です。次に空港出口の前の税関検査の手前、成田からの荷物受け取りのターンテーブルに届いた2個の荷物をピックアップした私は税関へ向かいます。

ガラガラの国際空港で、荷物を持って税関職員の前に立つと、2個の荷物を検査台に載せろとサインがありました。不審な箱を2個持ったジーパンにTシャツ姿の若者に興味を持つのはよく分かります。やはり明らかに何かが不自然に見えたはずです。もしも、私が彼の立場であれば私を徹底的に調べたことでしょう。私を呼び止めた税関職員の周りには、数名の職員が集まってきました。この段階で、かなりまずい雰囲気になってきているのを感じます。

担当の税関職員は英語で「これは何か」と聞いてきます。東京のK女史には、何か聞かれたら「放送機材」で押し通すように言われていたので、そのように答えたのです。ただ、それで解放される訳はありません。トランシーバーは、広義の意味では放送機材の類かもしれませんが、箱の中は明らかにトランシーバーであり、それはテレビの機材ではないのです。結局、私は箱を開けるように指示をされ、中身を見られた瞬間の相手の顔の表情、これは38年経った今でもよく覚えています。彼の顔は非常に難しい表情に変わったのです。そして、その場にいた同僚の税関職員とフィリピンの公用語であるタガログ語でやりとりが始まりました。

決して持ち込んではいけない拳銃を持ち込んでいる訳ではないものの、私の置かれた状況は明らかに良くなく、ついに尋問室へ連れていかれるのではないかなと感じ始めた次の瞬間です。担当職員の口から出た言葉は救いの一言、How much are you willing to pay? (いくら払うか?)だったのです。私はすかさずこの為にK女史に渡されていた100ドル紙幣2枚をパスポートに挟み、彼に渡したのです。次の瞬間、彼の返事はNow you can go! (言っても良い)だったのです。話のわかる人でよかったと、私の肩の荷は降り、無事空港ビルを出ることができました。

現在マニラで働く人の平均月収は912ドルと言います。賄賂で渡した200ドルの価値は平均月収の約4分の1です。ですが、これは39年前の話です。当時の200ドルは、彼らの平均月収の数倍だと聞きました。あの200ドルが何名の仲間に分けられたのかはわかりません。ただ、間違いなさそうなのは、あの晩彼らはアメリカの放送局のお陰で大宴会をやったのではないかということです。

解放され空港ビルを出た私は、現地のNBCニュースの現地スタッフに迎えられました。私のミッションは、この業務用トランシーバーを無事、フィリピン国内へ持ち込むことで終わりです。空港からホテルへの道のりでは、機関銃を持った兵士がいるエリアの近くも通ったのですが、他のエリアは現地の方々が普通の生活をしているのが見られました。

この時考えたのは、T Vのニュースで見ると反政府デモが全国で行われているように誤解してしまうのですが、実際はというと、問題があるエリアというのはあくまでも街の一部なのです。貧しい国ではあるものの、フィリピンが非常に綺麗な国であることを同時に体感することができました。

この時の経験は大学生の私にとって本を読むだけでは得ることができない勉強になりました。貧困、役人の腐敗、内乱、街を走る戦車、新興国のリスクというものを一通り経験した訳ですから。また、この経験からでしょうか、私のその後のリスクに対する許容度が高くなったのは。果たしてこのような経験をアルバイトの学生にさせたのが正しいのかの是非は置いておいて、今となってはこのような貴重な経験をさせてくれたK女史は私の恩人と思っています。